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となりの考古学の最近のブログ記事

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■となりの考古学 ~福岡にまつわる遺物たち~(全3回)■
 ◎第3回◎ 後産(あとざん)の今と昔
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こんにちは、本村文です。
妊娠も9ヶ月目に入り、テレビで出産シーンを目にする度に
身の引きしまる思いがしています。

よく知られていることですが、
出産は「赤ちゃんの誕生でおしまい」ではありません。
喜びもつかの間、続いてやってくる後産。
これを終えて、ようやく産んだ側は気が休まるものです。

10ヶ月の間、赤ちゃんの命を育み、ついに役目を終えた胎盤。
その後の行方、気になりませんか。

現在は、胎盤を専門にあつかう業者が、産院まで引き取りにきて、
法律にのっとり焼却するのが一般的だそうです。

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さて、1930年代。
家でのお産が当たり前だった時代、
胎盤は今とは違い、大切に扱われていました。

当時は、家の中に埋めていたんです。
その場所は、人が出入りする入口や、産屋の役目をかねた寝室の床下。
入口に埋めるのは「よく踏み固まるので、子の寿命が長くなる」との理由から。

この胎盤を埋める風習、
一体いつごろから行われていたんでしょうか。

中国にある、紀元前の遺跡・馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)。
この墓で、出産について書かれた医書『胎産書』が発見されています。
『胎産書』からは、胎盤=胎衣(えな)を、ていねいに水や酒で洗い、
甕(かめ)に入れて密封していたことがわかります。

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所変わって日本。
「なんと(710年)大きな」といえば、奈良の都・平城京。
この都の西側から、胎衣壷(えなつぼ)と呼ばれる、
古代人の胎盤を納めた器が見つかっています。

胎衣壷が埋まっていたのは、建物のすぐそば。
須恵器(すえき)という青灰色をした壷(つぼ)に、
当時のお金・和同開珎(わどうかいちん)、墨、筆を入れて埋めていました。
いっしょに入っていたであろう、胎盤は腐敗して、
壷の中に残ってはいませんでした。
http://bit.ly/x6ThEb

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ところで古代、文字を書く機会が多かったのは男性のほう。
国に関わる仕事をする役人、学識ある人たちは職業柄、
日常的に墨や筆を使ったことでしょう。

「わが子が、母のおなかを出たあとも無事に成長しますように」
「生き永らえて、将来、出世しますように」
そんな思いをこめて、親たちは胎衣壷に、
当時の筆記用具である墨や筆を入れたようです。

民俗学の話になりますが、
男の子の胎衣壷には「墨・筆・お金」を入れたそうです。
そのため、この胎衣壷にまつわる、
赤ちゃんの性別は男の子だったと考えることができます。

胎衣壷と思しき、古代の土器は、
小郡市・上岩田(かみいわた)遺跡の、集落跡からも発見されています。

こちらは、700年代後半のもの。

土師器(はじき)とよばれる、赤茶色をした甕(かめ)に、
墨で「丙乙麻呂」書いた蓋を乗せた状態で見つかりました。
ちなみに「麻呂」は、古代の男性によくある名前。
「丙」や「乙」は、暦(こよみ)に関係のある漢字です。
 http://bit.ly/x6ThEb

産まれた年や、性別を書いたのかしら。
想像がふくらみます。

歴史学や民俗学もそうですが、考古学の見方から離れたとき、
ふいに、ものを言うはずもない遺物がもの語ることがあります。
考古学の醍醐味は、まさにそこかもしれません。

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今回で『となりの考古学』は終わりますが、今後もブログなどを通して、
考古学にまつわる話を紹介していけたらと思っています。
お暇なときにでも覗いてみてください。

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本村 文(もとむら ゆき)
 ライター。大学では考古学を専攻。専門は人物を模した埴輪。
卒業後、埋蔵文化財関係の職場に勤めた。
ブログ:co-con 古今 http://bit.ly/xkipYQ
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■となりの考古学 ~福岡にまつわる遺物たち~(全3回)■
◎ 第2回 ◎ 古墳に並んだ母と子
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こんにちは。考古学ライターの本村文です。
今回は、古墳時代をとり上げます。

古墳時代という言葉から、ポンッと思い浮かんだのは
あのキャラクターではなかったでしょうか。

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80年代のNHK子ども向け番組『おーい!はに丸』。
「はにゃ~?」でおなじみの武人や馬、建物のモデルになったのは、
1500~1700年ほど前に作られた埴輪(はにわ)なんです。

ふつう権力者の墓「古墳」に飾るのは、赤い土で作った埴輪。
ところが筑後地域では、ひと味違ったものを古墳に並べました。

「石人・石馬(せきじん・せきば)」という言葉、
筑後地域に暮らす方なら、一度は耳にしたことがあるのでは?

石人・石馬は、文字どおり、石を人や馬の形に加工したもの。

といってもその種類は多様で、犬や鳥といった動物、
太刀などの道具を飾るところは、埴輪とよく似ています。
そのため古墳に置物を並べるという、当時の流行りに乗りつつ、
素材を石に置きかえたと考えられています。

石人・石馬が数多く見つかっている、八女古墳群。
ここ、古代九州の豪族・筑紫君(つくしのきみ)一族の墓域で、
石人・石馬は生み出されました。

作り始めたころの石人は、甲冑(かっちゅう)を身につけ武装した姿。
鎧(よろい)には「同心円」とよばれる二重丸の模様が彫られています。
この呪術色の強い鎧を身に着けた、石の武人は
墓に眠る主人を守る役目を担っていたとか。

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さて、時は西暦500年代。
海の向こう、朝鮮半島は動乱の最中にありました。

半島の南にあった百済(くだら)と国交の深かったヤマト王権。
百済の求める、派兵などの負担を引き受ける見返りに、
王権側は、最先端の技術や文物をどんどん取り入れていきました。

ところで、兵士として朝鮮半島に送られたのは
九州の人たちがほとんどだったという見方があります。
このことが、九州で随一の勢力を誇った筑紫君・磐井(いわい)が
乱を起こすきっかけのひとつになったとも言われています。

1年半にもおよぶ内乱の末、勝利したのはヤマト王権でした。
その結果、現在の福岡市内には「屯倉(みやけ)」と呼ばれる
ヤマト王権の政治・軍事の拠点が置かれ、国内統一が一段と進みました。

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八女市にある童男山(どうなんざん)古墳群。
磐井の乱の数十年後に造られた3号墳から、
赤ん坊を背負った母親の石人が出土しています。

言うまでもなく、母と子は戦いとは無縁のモチーフです。
いかめしい武人に代わって、
何気ない「暮らし」そのものを象徴するかのような
母と子の石人が作られるようになったのです。

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ところで、同じころに作られた埴輪に似通ったものがあります。

栃木県・鶏塚(にわとりづか)古墳から出土した、子を背負う女子埴輪。
こちらは頭に壷を載せた庶民のいでたちです。
食料の入った壷を頭に載せ、背負った子をあやしながら
小道を行く母の姿が目に浮かぶようです。

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小さな命を背負う、石人と埴輪。
それらは、戦いに明け暮れた時代が終わり、
命の尊さを語ることのできる、平和な時代が訪れたことを
それとなく告げているのかもしれません。

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本村 文(もとむら ゆき)
 ライター。大学では考古学を専攻。専門は人物を模した埴輪。
卒業後、埋蔵文化財関係の職場に勤めた。
ブログ:co-con 古今 http://kouko-writer.cocolog-nifty.com/blog/
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 ■となりの考古学 ~福岡にまつわる遺物たち~(全3回)■  
 ◎ 第1回 ◎ 子をはらむ、産むかたち
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はじめまして、本村文です。
 10代で考古学と出会い、20代で専門的に学び、 
今年ついに夢かなって、考古学をからめた記事を書くことになりました。 

どことなくおカタいイメージのつきまとう考古学ですが、 
人の想いがこもったもの、笑いがこみ上げてくるものなど、
 親しみやすい遺物が土の中から顔を出すことがあります。

 その一例を紹介しましょう。

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ふくらんだ胸、前にはり出したお腹...... 
けっしてメタボなおじさまではありません。
 縄文時代に作られた土偶は女性、とくに妊婦を表したものが多いんです。 

妊娠土偶とよばれる、大きなお腹の土偶は福岡県内でも発見されています。

 築上郡上毛(こうげ)町にある、 
東友枝曽根(ひがしともえだそね)遺跡から見つかった
 妊娠土偶の手足は欠けていますが、 
土偶はこんなふうに壊れた形で見つかることがほとんど。 
そため、安産や病状の回復を願って作られた
 「身代わり」だったとも考えられています。

 この土偶、お腹が下がっているところをみると臨月間近でしょうか。
 妊娠の週数が進むにつれ、ふくよかになっていく体。 
わたし自身も妊婦なので、実感をこめて一言。
 「妊婦って本当、こんな体型です」

 ところで、百聞は一見にしかず。

 東友枝曽根遺跡出土の妊娠土偶がどんな姿をしているのか、

 興味のある方はどうぞ、わたしのブログを覗いてみてください。
実物は、ただいま九州国立博物館の文化交流展示室で見ることができます。 
本物に向き合うと、思わぬ発見があるかもしれませんよ! 

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 その昔、妊婦は命がけで出産にのぞみました。 
今とは比べものにならないほど、母子ともに死亡率が高かったんです。 

縄文時代の巨大な集落が発見された、 
青森県・三内丸山(さんないまるやま)遺跡。

この遺跡からは、埋甕(うめがめ)という、 
胎児~生後1年の乳幼児をおさめた墓が数多く発見されました。
 その数、大人の墓の約6倍。 

この遺跡で暮らした人々の平均寿命は30歳前後だったそうです。
 2010年度の平均寿命は83歳ですから、なんて短い一生だったんでしょう。 
(※参考:WHO 世界保健統計2010年) 

今よりも世代交代が頻繁に行われていた時代、
 赤ちゃんといえども、いずれは集落の存続にかかわる大切な存在でした。
 宿した命、産んだ命が育たずに絶えるというのは、 
親やその家族の悲しみにとどまらず、集落全体の悲しみでもあったようです。

 人々が暮らしていた住居のそばに埋甕を埋めたのも
 「今度こそ生まれておいで」 「すぐにでも、また産まれておいで」 
そんな切なる願いの表れだったのでしょう。

 :・。・:・。・:・。:・。・:・。

 ところで、分娩台がなかった時代、 
日本女性は座産(ざさん)といって、座って子を産み落としました。 
たしかに座った姿勢のほうが、
 分娩台に横たわるよりも何だか力が入りやすそうです。

 岩手県の東裏遺跡から見つかった、中腰の土偶は 
出産している姿に見えなくもありません。
アゴを上げ、手をぐっと握っていきんでいるのかしら。 
座産を見たり、経験した人の意見を一度うかがってみたいものです。 

 見る人によって、見え方が違うのが土偶の魅力のひとつ。 

今はネット検索で、簡単に国宝級の土偶を見物できる時代です。 
縄文のビーナスや合掌する土偶、 
そして教科書でもおなじみの極端に大きな目をした遮光器(しゃこうき)土偶。
 個性ゆたかな土偶の中から、
 あなたのお気に入りを探してみるのも楽しいかもしれません。
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本村 文(もとむら ゆき)
 ライター。大学では考古学を専攻。専門は人物を模した埴輪。 
卒業後、埋蔵文化財関係の職場に勤めた。 
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2017年3月

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